木版画

庶民の浮世離れしたはかない喜びを描いた「浮世絵」は、絵画技術の進歩を反映し、時にはそれと重なり合いながら制作されました。この視覚的に訴えるアートは、16世紀後半から17世紀初頭にかけて、急速に拡大する都市生活の様子を描く必要性から生まれました。

風景や花鳥を題材にした絵が流行した19世紀初頭まで、浮世絵は、遊郭や歌舞伎などの描写を中心としていました。こうした題材は、木版画だけでなく、絵画にも取り入れられています。

8世紀以降、仏教寺院では、布教のために画像や文章を複製する比較的安価な技術として、木版画を独占してきました。800年以上もの間、このとてもシンプルな技術を必要とする、他の文化的なトレンドや運動はありませんでした。

また、17世紀前半には、画家が花柳界の主な解釈者でした。印刷媒体が艶本や廉価な絵入りの小説などに利用されていたことからも、印刷アートへの評価が低かったことがわかります。

これは、芸術家は基本的に自らの作品のプロデューサーであり、マスターであるという考え方に由来しているのかもしれません。しかし、木版画の場合、芸術家は「デザイナー」と見做されがちで、スタジオやその他の商業的施設等の代表である出版社から直接依頼を受け、監督される立場となることが多かったのです。

最もシンプルな版画は、墨で描かれた白黒のスケッチに、時折、色を加えたものでした。熟練した彫師がデザインを桜やツゲの木の板に転写し、浮き彫りを作りました。摺師が墨を塗った版を紙に刷り、必要に応じて手彩色が施されました。

多色摺には、追加の版木や、版木同士の組み合わせを正確に合わせるための精密な印刷工程が必要であり、さらに雲母、貴金属、エンボスなどの装飾を加える場合は、より複雑な作業になります。

浮世絵のテーマやイメージは、絵画でも版画でもほとんど違いませんでしたが、版画の工程には、通常一枚の紙に名前が印刷される機会が多かった芸術デザイナーよりも多くの匿名の才能ある人々が関与していました。大量生産される版画は、高度な芸術性が頻繁に達成されているにもかかわらず、使い捨てのように扱われていたのです。

ところが、江戸時代初期に識字率が飛躍的に高まり、それまでの伝統的な工房にはなかった客層や題材に対応した浮世絵に大きな支持が集まるようになると、大量生産が必要となり、その需要に応じた新しい流派や技法が生まれました。

17世紀末には、大胆な墨の単色刷りに手彩色を加えた版画が登場します。杉村治兵衛の『遊女と客』は、表現可能な豊かでニュアンスに溢れた雰囲気がよく表現された作品です。治兵衛は、酒に酔った遊郭の客が遊女に迫り、もう一人の遊女が視線をそらす様子を、一見シンプルな構図の中にうまく描写しています。