
コレクションガイド
江戸時代は、まさに日本美術の新時代の幕開けともいえる時代でした。特に1600年は、日本史の分岐点となる年でした。この年に徳川家康が支配権を握り、戦国武将による戦乱が続いていた日本を統一したのです。将軍となった家康は、都として江戸(現在の東京)を選び、地方の一僻地を日本の新しい中心地へと変えました。
当時、人口100万人であった江戸は、18世紀半ばには地球上で最大の都市となっていました。ちなみに、徳川幕府が統治を続けた1868年までが、江戸時代と呼ばれます。平和で豊かなこの時代には、芸術も盛んになり、中でも浮世絵は、独特の視点、不意の断絶、見事な絵画スタイル、明るく濃淡のない色彩などの美しさが際立っていました。
米NYのクリスティーズ社の日本美術スペシャリストであるアナスタシア・ヴォン・シーボルト氏は、「喜多川歌麿(1753-1806)、葛飾北斎(1760-1849)、歌川広重(1797-1858)は、史上最高の画家の殿堂に属しています。」とコメント。2017年、同社では、北斎の『神奈川沖浪裏』が、日本の木版画のオークション新記録を樹立し、落札額は94万3500ドルを記録しました。
墨摺絵(白黒)
木版画は、8世紀に主に仏典などの文献の複製に使われたのが始まりです。絵が入った本が作られるようになったのは1500年代初頭のことで、これにより単体の絵への道が拓かれました。
最初に描かれたのは、墨一色で摺られた白黒の「墨摺絵」でした。これは、紙に描いたスケッチを桜の木の版木に転写し、それを彫ってインクを塗り、白紙を重ねる技法です。書道的な線描で知られる著名な画家には、菱川師宣(1618-1694)がいます。
多色摺の木版画「錦絵」
複数のカラーを用いた印刷は困難で、緑やピンクは1740年代に入ってから慎重に導入されました。鈴木春信(1724-1770)が多色摺を確立し、1765年に技術は大きな進歩を遂げました。
その結果として生まれたのが「錦絵」です。錦絵は、木版を何枚も彫って作られたものです。まず輪郭を浮き彫りにした「主版(おもはん)」を作り、次に主版を印刷し、その校正刷りをもとに、さらに各色ごとの木版を作ります。そして、各ブロックの正確な位置合わせを可能にする技法を利用して、各色の木版を1枚ずつ印刷していきます。
今日、版画といえば、晴信以降に制作された華麗なフルカラーの作品を思い浮かべることが多いでしょう。19世紀までには、広重の壮麗な夕焼けや水面の広がりのグラデーションに見られるように、芸術家たちは非常に繊細な表現を確立しました。
このような繊細な版画は、常に求められる存在であり、どの時代においても需要があるのです!
木版画
庶民の浮世離れしたはかない喜びを描いた「浮世絵」は、絵画技術の進歩を反映し、時にはそれと重なり合いながら制作されました。この視覚的に訴えるアートは、16世紀後半から17世紀初頭にかけて、急速に拡大する都市生活の様子を描く必要性から生まれました。
風景や花鳥を題材にした絵が流行した19世紀初頭まで、浮世絵は、遊郭や歌舞伎などの描写を中心としていました。こうした題材は、木版画だけでなく、絵画にも取り入れられています。
8世紀以降、仏教寺院では、布教のために画像や文章を複製する比較的安価な技術として、木版画を独占してきました。800年以上もの間、このとてもシンプルな技術を必要とする、他の文化的なトレンドや運動はありませんでした。
また、17世紀前半には、画家が花柳界の主な解釈者でした。印刷媒体が艶本や廉価な絵入りの小説などに利用されていたことからも、印刷アートへの評価が低かったことがわかります。
これは、芸術家は基本的に自らの作品のプロデューサーであり、マスターであるという考え方に由来しているのかもしれません。しかし、木版画の場合、芸術家は「デザイナー」と見做されがちで、スタジオやその他の商業的施設等の代表である出版社から直接依頼を受け、監督される立場となることが多かったのです。
最もシンプルな版画は、墨で描かれた白黒のスケッチに、時折、色を加えたものでした。熟練した彫師がデザインを桜やツゲの木の板に転写し、浮き彫りを作りました。摺師が墨を塗った版を紙に刷り、必要に応じて手彩色が施されました。
多色摺には、追加の版木や、版木同士の組み合わせを正確に合わせるための精密な印刷工程が必要であり、さらに雲母、貴金属、エンボスなどの装飾を加える場合は、より複雑な作業になります。
浮世絵のテーマやイメージは、絵画でも版画でもほとんど違いませんでしたが、版画の工程には、通常一枚の紙に名前が印刷される機会が多かった芸術デザイナーよりも多くの匿名の才能ある人々が関与していました。大量生産される版画は、高度な芸術性が頻繁に達成されているにもかかわらず、使い捨てのように扱われていたのです。
ところが、江戸時代初期に識字率が飛躍的に高まり、それまでの伝統的な工房にはなかった客層や題材に対応した浮世絵に大きな支持が集まるようになると、大量生産が必要となり、その需要に応じた新しい流派や技法が生まれました。
17世紀末には、大胆な墨の単色刷りに手彩色を加えた版画が登場します。杉村治兵衛の『遊女と客』は、表現可能な豊かでニュアンスに溢れた雰囲気がよく表現された作品です。治兵衛は、酒に酔った遊郭の客が遊女に迫り、もう一人の遊女が視線をそらす様子を、一見シンプルな構図の中にうまく描写しています。
木版画
木版画の魅力に迫ろう
木版画の魅力は、その表現力や有機性にあり、それが近年の人気の高まりの理由の一つとなっています。日本の伝統的な木版画には、無害な水性のインクを使用し、印刷機を必要としないなどの多くの魅力があります。一方、西洋の木版画では、水性インクに糊を混ぜて使用するため、より強い効果が得られる傾向にありますが、日本の木版画はより繊細でデリケートです。
日本の木版画は、バランスの取れた繊細なアートであり、初期の中国のオリジナル版から進化した材料と道具を用いて、おそらく世界で最も優れた芸術となっています。
版画家たちは様々なものから着想を得ますが、現在では、西洋と東洋の両方のアプローチから得た手法や材料を組み合わせて、傑作が生み出されています。
木版画に使用される木材
バルトバーチ合板
バルトバーチ合板は、伝統的な木版画の技法にぴったりで、油性または水性のインクを使用できます。
JASバルトバーチ合板は、寒冷地で生産されており、白樺を何層にも重ねているため、従来の合板に比べて木目が密で細く、空洞が少ないのが特徴です。
表面を滑らかにサンディングしたり、ワイヤーブラシでブラッシングしたりすることで木目を目立たせて、印刷に取り入れることもできます。
プリントウッド
木版画の材料として最も一般的なのは、シナノキです。シナノキは寒冷な気候で育つ木材で、長持ちし、細くほとんど目立たない木目が高く評価されています。シナ合板は柔らかく、簡単に彫ることができます。
ソリッドカラーの場合、厚みのある無地の横目ブロックが特徴のホオノキや、より細かいカットの無地の横目ブロックが特徴のカツラがおすすめです。どちらの木材も滑らかにサンディングされており、ブロックの両面に彫刻を施すことができる厚さとなっています。油性/水性のレリーフインクも使用できます。
Pfeil社製の専門家用ウッドカットツール
安定した人気を誇るPfeil社製のリノカッターやブロックカッターに続いて、今回は大型のウッドカットツールを入荷しました。
Pfeil社製のMallet Handle(マレット・ハンドル)ウッドカットツールは、八角形の長いハンドルが特徴で、両手でしっかりと握って作業することもできます。
また、同じくPfeil社製のHornbeam Mallet(ホーンビーム・マレット)と組み合わせて使うこともできます。Hornbeam Malletは、原生のシデの一枚材で作られており、それ自体が素晴らしいツールです。大胆でよりアグレッシブな木版画により適しています。
木版画の道具
職人の手による伝統的な木版画の道具も販売しています。刃物製造の技術には、長く輝かしい歴史があります。
これらの道具は、刀剣の製造から発展したもので、北斎の有名な『神奈川沖浪裏』に代表される浮世絵の制作に見られるような、正確な彫刻には必須となる道具です。これらの彫刻道具の改良には、中国の初期の発明とデザインが用いられました。
ちなみに、東洋と西洋の木版画の最も顕著な違いは、板木のエッチング工程にあります。
時代とともに進化してきた「浮世絵」と「木版画」
浮世絵とは、江戸の認可済みの遊郭である吉原(現在の東京の劇場/歓楽街)の、はかない世界を描いた絵画や版画のことです。浮世絵は「浮(浮く)」「世(世間)」「絵(絵画)」という言葉を組み合わせたものです。
「浮世」はもともと仏教の言葉で、人生の無常を表していますが、江戸時代(1615-1868)には、人々の官能的/快楽的な楽しみを指すようになり、その変化し続ける性質がより愛されるようになりました。
浮世絵は、16世紀から17世紀の日常生活を描いた、手描きの巻物や屏風が始まりで、踊り、花見、祭りなどの人気の娯楽や、嫋やかな女性の姿が多く描かれました。
それまでの絵師は、宗教画や宮廷絵巻の挿絵、四季の風景画などを描いており、この浮世絵に関心を寄せたのは、商人や職人などの町人でした。浮世絵は、お手頃な価格で入手できたため、17世紀末にはその需要の高まりに応じて、木彫りの版木を使って大量生産されるようになったのです。
一方、木版画は8世紀にはじめて中国から伝わり、11世紀から19世紀にかけて主流となった印刷方法です。中国と同様に、当初この技術は仏典の複製に使われ、のちに文学作品が刷られるようになりました。
日本語で書かれた書物が印刷されるようになったのは、1500年代に入ってからです。初期のものはモノクロで、手描きで色をつけることもありましたが、印刷技術が進歩していくにつれ、1765年頃にはカラフルな印刷が登場しました。日本初の色刷りは、オリジナルの芸術作品で、その後すぐに、一枚摺の浮世絵が出版されるようになりました。
一枚摺の浮世絵は、一般向けに大量生産され、露店や商店で低価格で販売されました。庶民の生活が豊かになり、活動の幅が広がったことで、浮世絵は庶民の間で最も人気のある芸術となりました。
政府は、浮世絵のサイズ、題材、素材などをたびたび規制し、1799年以降は、商人階級の派手な浪費を抑えるために、不道徳なものや政治的に問題のあるものを題材にすることを禁止しました。
市場原理に基づいたこのようなアート印刷では、スタイルが頻繁に変化してきています。初期の印刷はモノクロで、印刷後に手描きで色がつけられていました。大衆の増大する需要に応えるためには、手描きの彩色では時間がかかりすぎるため、2色や3色の基本的な絵を版下にする技法が発達しました。
1765年には、鈴木春信などの画家が、多色摺の錦絵を制作。より多くの色が使われるようになったため、よりリアルで情感豊かな版画が生まれたのです。錦絵の顔料には、水溶性の植物染料が使われており、それにより、繊細で微妙な色調が表現可能となりました。
このようにして絵師や摺師たちは努力を重ね、水や鏡の反射による色の微妙な変化や、紗越しに見える物体を描くなどの、より繊細な効果を生み出したのでした。